TACHIKAWA
BILLBOAD

TACHIKAWA BILLBOAD東京・立川周辺のART&CULTURE情報

interview

「演劇」を媒介に、観光や福祉、地域の活性化を目指す「たちかわ創造舎」。

「演劇」を媒介に、観光や福祉、地域の活性化を目指す「たちかわ創造舎」。

倉迫康史(くらさここうじ)さん
舞台演出家、社会教育士

1969年生。宮崎県出身。一般社団法人Theatre Ort代表理事、たちかわ創造舎ディレクター、立川シアタープロジェクト実行委員長、洗足学園音楽大学ミュージカルコース講師。1992年、早稲田大学政経学部政治学科卒業後、演出家を志す。20代から30代まではテレビ、ラジオの放送作家としても活動。現在は、東京都立川市を拠点に全国各地で演劇やリーディングの上演、演技やコミュニケーションのワークショップを数多く行うほか、オペラやミュージカルなどの演出も手掛ける。宮崎県オペラ協会によるオペラ『赤毛のアン』(台本・演出)は三菱UFJ信託芸術文化財団「佐川吉男音楽賞 奨励賞」「宮崎日日新聞文化賞」を受賞。

まずはじめに今日、取材をさせていただいているこの「たちかわ創造舎」について、教えてください。

ここは、もとは立川市立多摩川小学校だった場所です。多摩川の土手がすぐそばで、晴れている日には教室の窓から富士山も見えるんですよ、いい場所でしょう。2004年に閉校しましたが、「立川市旧多摩川小学校有効活用事業」でNPO法人アートネットワーク・ジャパンが事業者に選ばれ、校舎や体育館をそのまま残した形で、新しい文化の創造と発信の場として、2015年9月にオープンしました。現在は、企画・運営にNPO法人アートネットワーク・ジャパン、連携団体として、たまがわ・みらいパーク企画運営委員会、NPO法人日本自転車環境整備機構、そして僕が代表理事の一般社団法人Theatre Ort (シアターオルト) が協力しています。

校舎の二階を中心に体育館、校庭、屋上、昇降口などが撮影に貸し出され、映画やドラマ、バラエティ番組、ミュージックビデオのロケ地としてさかんに利用されているので、テレビや映画で見たことがある!という人も多いと思います。A棟の三階はアーティストやクリエイター向けのシェアオフィスになっていて(現在は満員)、僕のディレクタールームもここにあります。

倉迫さんは舞台演出家でいらっしゃるそうですが、これまでの経歴を教えていただけますか。

幼稚園から小学5年生まで千葉県船橋市にいた時に、親に児童劇や人形劇をよく観に連れて行ったもらったことが、舞台という「場」や上演のための「空間」の面白さ、そこに立ち会う快感の原体験としてあったのかもしれません。でも、子どもの頃から演劇を志していたわけではありません。中学2年生の夏休みで退学した愛媛県松山市の中高一貫の私立校での部活はラグビー、転入した宮崎県宮崎市の公立中では部活には入らなかったものの柔道の道場に通い、高校ではハンドボール部でゴールキーパーでした。
それが、高校3年生の時に、東京でミュージカルの『レ・ミゼラブル』を観て感動した友人が、文化祭でミュージカルでなくてもいいから『レ・ミゼラブル』をやりたいと言い出して、どういう経緯だったのかは忘れましたが、僕が台本を書くことになったんです。勉強だけなのが嫌で私立の学校を退学したぐらいのお祭り好きだったので、「文化祭を楽しみたい!」という気持ちが人一倍強かったんでしょうね(笑)。

ハンドボール部でゴールキーパーだった高校生時代

では、それがきっかけで演劇の道へ進まれたのですか?

いえ(笑)。大学は早稲田の政経に進んだんですが、演劇はやっていません。ただ、大学時代の恋人が演劇好きで、付き合いで小劇場を観に行ったりしてました。ところが、大学3年生の終わりに1ヶ月くらい、語学留学の名目でニューヨーク近郊の街に滞在していた時にブロードウェイやオフ・ブロードウェイを観まくって、その時に初めて、今まで自分が観てきた日本の現代演劇にある独特の哲学や美しさ、楽しさや面白さに気が付いたんです。“僕たちは日本の演劇をもっと誇りに思えるといいんじゃないか。そのために自分には何ができるだろうか”と、考えるようになりました。
そこで、大学4年生の時、外務省に入って国連大学のような組織として「国際的な演劇学校・研究機関」を作ったらいいんじゃないかと、いきなり外交官試験を受けることにして当然落ち(笑)、やっぱりまずは「演劇の現場」に行こうと思い直し、就職しないまま大学を卒業しました。ちょうどその時、たまたま「チケットぴあ」本社でアルバイトの求人があったので面接に行き、運良く小劇場の票券の担当になりました。昼は「ぴあ」で働きながら、夜は「俳優養成所」に通い、仕事で舞台制作サイドの人と接する機会が増えたことで、年間で200本くらい芝居を観ることもできました。
そして、一番おもしろいと感じた劇団「山の手事情社」が、ちょうど演出助手を募集していたので迷わず応募して、養成所卒業後、演出助手を始めました。この後、「ぴあ」も「山の手事情社」も辞めて、養成所時代の仲間と劇団を旗揚げしたのが25歳。劇団主宰をしながら食べていくために、大学時代の「テレビ放送研究会」というサークルの先輩からの紹介で、放送作家の仕事を見よう見まねで始めたのもこの頃でした。その後、多くのテレビ番組やラジオ番組に構成作家として参加してきました。

子どもに見せたい舞台vol.5『青い鳥』にしすがも創造舎特設劇場 ©️飯田研紀
ファーレ立川アート ミュージアム・デー2023秋 ツアー演劇『ファーレ遺跡アドベンチャー』 ©️西野正将

「たちかわ創造舎」のチーフディレクターになったきっかけは、何だったのですか?

旗揚げした劇団を28歳で解散して、これから先のことを考えるようになったタイミングで、一世代上の演出家である花組芝居の加納幸和さん、青年団の平田オリザさん、ク・ナウカの宮城聰さん、山の手事情社の安田雅弘さんによる「若い演劇人のための集中講座」に参加しました。この時初めて、自分が知っている「東京の小劇場界」とは別の演劇、社会とつながる文化芸術活動としての演劇を学びました。日本の文化行政のあり方、公共劇場の役割、助成金申請やワークショップなどのアウトリーチの方法を知ったのも、この時です。
そして、2004年にNPO法人アートネットワーク・ジャパンの蓮池奈緒子さんに出会い、『にしすがも創造舎(アーティストに創作の場を提供、廃校の空間を活かしたアートプロジェクトを展開していた、廃校活用の先駆け的な施設)写真上』を拠点にレジデント・アーティストとして活動、豊島区の文化行政や地域住民と深く関わり、自分のすべきことは、「演劇業界」で売れるとか売れないとかではなく、地域の「演劇文化」全体のボトムアップを仕掛けていくことだと思うようになりました。
その後、都心での活動が10年過ぎ、これからは自分の住んでいる多摩地域を活性化させたいと思っていた時に、蓮池さんから「立川市旧多摩川小学校有効活用事業」の相談をされ、運営計画の作成、立川市へのプレゼンなども行い、「たちかわ創造舎」のディレクターに就任しました。今は演劇を媒介に、文化芸術だけでなく、教育、観光、福祉などをオーガナイズし、コミュニティを再編成できたらと考えています。

倉迫さんが人生で影響を受けた【私の三冊】を教えてください。

1冊目 :『ダルタニャン物語 1 友を選ばば三銃士 』
(講談社文庫/著者:アレクサンドル・デュマ)

古い作品ばかりですが 、小学4年生の時に初めて買った文庫本で、シリーズ全巻を揃えました。大河ドラマ好き、活劇好きはこの頃からでした。

2冊目:『滅びの風』
(ハヤカワ文庫/著者:栗本薫)

中学、高校と著者の「グイン・サーガ」シリーズにはまり、大学1年の時に読んだSF連作短編です。「メメント・モリ」が心に刻まれた1冊です。

NOW PRINTING
3冊目:『軽井沢シンドローム』
(ビッグコミックス/著者:たがみよしひさ)

中学時代に「大人の漫画」として出会い、主人公たちの自由な生き方に憧れました。「活劇」「メメント・モリ」「自由な生き方」、その延長線上に自分の今があります。

最後に、倉迫さんの夢はなんですか?それから、ちょうど立川市の新しい市長が就任されたばかりですが、もし倉迫さんが市長になったら何がしたいですか?

僕の夢は、若い人にバトンを受け取ってもらうことですね。そうしてバトンをつないでいって、いつか日本が芸術文化を誇りとする国になることを夢見ています。30代前半から今のような活動を始めて20年、僕も54歳になりました。自分がこれまで与えられてきたことを若手に渡していかなくてはと思っています。オーガナイズやネゴシエーションにすぐれ、芸術性と社会性を両立させ、エゴを超えて街や人に関わろうとする若い人に出会いたいですね。

もし、市長になったら。うーん、そうですね、文化の専門家や地域の芸術家を市内各地の公共施設に配置して、こまやかな相談や発信を請け負ってもらって、市民レベルで生活の中に文化芸術を取り込ませたいかな。立川市は商業都市として発展してきた街ですが、古くからの文化もあった街です。生活と文化芸術は両方なくてはならないもの、経済活動ばかりだと人も街も潤いに欠けます。街の歴史の積み重ねの中にある先人からのバトンを、未来にどう渡していくかを丁寧に考えたいですね。

 

●たちかわ創造舎 https://tachikawa-sozosha.jp/

一般社団法人Theatre Ort https://ort.design/

(取材ライター:小林未央)