関頑亭:Seki Gantei芸術家
国立市在住。1919(大正8)年、東京都北多摩郡谷保村(現・国立市谷保)に生まれる。彫刻、絵画、書、建築。作品は多岐にわたる。好きなモチーフのひとつに鯰がある。好物はいちじく。
絵は目で描くんじゃない、心で描くんだ。
関頑亭さんは、現在御年97歳。“国立の宝”と言われ、脱活乾漆(ルビ:だっかんかんしつ)という鎌倉時代の技法を蘇らせて制作した中野・宝仙寺の「弘法大師像」や、姫路・亀山御坊本徳寺の桜の間障壁画をはじめ、仏像、狛犬、絵画から、彫刻、書、建築など、作品は多岐にわたる。また、国立在住だった作家の山口瞳さんら文化人との交友も深く、その風貌がドストエフスキーに似ているとの着想からドスト氏として、エッセイにもたびたび登場している。
いつも書籍やメディアを通して、その飄々とした佇まいに強烈に惹かれていた頑亭さんにお会いできる機会を得た。今回頑亭さんはその長い歳月の人生のなかでも大きな影響を与えた出兵の記憶、そして、今描かれている絵のことを、話してくださった。
頑亭さんは1919(大正8)年、7人兄弟の3番目として当時の谷保村(現在の国立市谷保)に400年続く旧家に生まれた。多摩川に近い谷保地域は田んぼが多く、今もモチーフとして好む“鯰”は小さい頃から好きだったのだという。「鯰はよく描いたね。だって、鯰はひょうひょうとしてとらえどころがないからすきなんだ」と頑亭さんは、会話に間をとりながらぽつりぽつりと答えてくれた。
そして、18歳の時に描いたという谷保の夕景色の絵を見せてくれた。
小さい頃から確固たる意思を持ち、勉強に点数で序列をつけられたり、枠にはめられることが大嫌いだった頑亭さん。高等小学校を卒業後、中学には進学せず、彫刻家の澤田政廣氏に弟子入りし、念願の彫刻について住み込みで学ぶことになった。そんな最中、戦況は徐々に悪化。21歳の時に入隊し、中国のハルビンへ。
戦争当時の話に移ると頑亭さんは、戦地で描いたという貴重な絵を見せてくれた。その絵は現在、豆本の形にして大切に保存されている。2~3cm四方のスケッチ、これは軍事郵便の封筒やハガキを小さく切って、それをキャンバスに描かれたものですべて原寸。小さいスケッチ用紙を軍服の胸ポケットに入れ、ほかの兵隊が昼寝をしている間にこっそり描きためたものだそうだ。
「見つかると処罰されるのよ。戦闘中に描いてる絵だからね。この“二つなき 夕陽は赤き心かな” ってのはね、赤心といって、天皇に忠義を尽くすって意味をこめたんですよ。この時はそんな思いだったね」
——描きたい、その気持ちは戦地でもずっと同じなんですね。
「それは戦争中だって、今だって同じですよ。描きたい気持ちはどこにいてもずっと変わらない、変わるわけないじゃない」頑亭さんのまなざしが一瞬ぐっと強くなった。
最近の頑亭さんは、風景を描くことが多い。昨年、96歳の時には北海道の夕張・八戸旅行へ出かけ、各所をスケッチした。「やっぱり、実際に見ないと描けないからね」。長男・純さんの奥様、潤子さんは、同行したその時の様子を「後から描き足すということは一切なくて、かならずその場で仕上げていましたよ」と教えてくれた。描く場所はどんな風に決めるんですか? と質問をした時、数秒の静寂のあと、
「自分で、そこの風景が胸にぐっとこたえれば、それを描く。目で描くんじゃないから。心で描くんだ」
と頑亭さんはよどみないまっすぐの眼差しでこう言った。もうすぐ100に届くほど年齢をかさねてもなお、エネルギッシュな血をたぎらせているそのオーラに、私はたじろいでしまった。ふいに飛び出したその言葉はずっしりと胸に響いた。
日常の中で描きためるスケッチのほかに、現在数年かけて制作しているのは薬師如来像。監督の立場で携わっている。今は国立からあきる野市のアトリエに移って、頑亭さんが信頼を寄せる漆作家が仕上げを行っており、茨城県の東金砂神社に納める予定だ。
また、来年2017年の年明け頃には、頑亭さんの2月の誕生日にあわせて、国立市内のギャラリー「岳」で展覧会を予定している(会期は現在調整中)。97歳の頑亭さんの目がとらえた風景、パステルの優しい画風、ぜひ実際にその目で体感してもらいたい。5、6歳から絵を描いているという頑亭さん。90年以上もの間、作品を生み出し続けたその手が描く色の向こう側に、長い長い人生の年輪も感じることができるだろう。
文・写真/三森奈緒子(けやき出版)