中野献一:Nakano Kenichi芸術家
出身:立川市
1951年立川市生まれ。高校生のときに画家になることを決め、卒業後単身パリに渡る。国立高等美術学校に5年在籍後、南仏セヴェンヌ地方で10年暮らす。1985年に帰国し、以後立川市の実家「蔵館」にアトリエを構え、絵画制作を続けている。
“光”を追い求めて描きつづける
多摩都市モノレール砂川七番駅から徒歩4分。住宅街の一角に、ひときわ立派な門構えのお屋敷が。その大きさに圧倒されると思いきや…、一歩足を踏み入れると「こちらへどうぞ」と言われるような、どこか開放的な雰囲気がある。
門の先で迎えるのが、文化庁登録有形文化財に登録されている「蔵館」。ここを実家兼アトリエとしているのが、今回お話を聞く芸術家・中野献一さんだ。
画家への大きな一歩は、20歳の単身渡仏
献一さんが画家になるとを決めたのは高校生のとき。進学校に通っていた献一さんは、どうしても「いい大学に行く」ための勉強に馴染めなかったという。それよりも小学校から好きだった「絵を描くこと」を追求したかった。
そして20歳のときに「自分はピカソよりも、きれいな色彩を表現できる」という強い想いを持って単身渡仏。フランス・パリの国立高等美術学校にて5年間、みっちり絵を学んだ。
「ただ権威を示すような、自分の主張が激しい絵は嫌いでね。鑑賞者を上から見ているようで」
美術学校を卒業後、パリの喧噪から離れるため南仏・セヴェンヌに。美しい景色や悠々とした風土の中で、ゆるやかに創作を続けていく。この地で献一さんは10年の時間を過ごすが、その間に感じ取った異文化の風景や暮らしの営みから、多くの刺激を得たようだ。
「日本文化とフランス文化をくらべると、明らかに「水と油」の感はぬぐえない。だからこそ、その異なる文化に面白さを感じた」(セヴェンヌでの10年をまとめた本『ボンジュール セヴェンヌ』(文芸社)*絶版)
光の流れを描く
フランスに渡って15年が経った35歳のとき、日本に帰国。実家の「蔵館」にアトリエを構えると、創作に打ち込む日々がはじまる。
「ずっと光を描いている。反射じゃなくて、“光そのもの”。光にも種類があって、あったかい光もあれば湿っぽい光もある。でも光ってどれも気持ちがぱあっと明るくなるでしょ? 描きたいのは、そういう元気になる光。点や線を重ねていくと、絵の中に“光の流れ”が生まれてくる。その流れに沿って人の気持ちを上昇させるような絵が描けたら嬉しい」
たしかに、献一さんの絵を見ていると気持ちが上向いていくような不思議な感覚がする。植物が陽の方向を向くような感覚だろうか。絵の中に見える明るい方向に、視線(感情)が引っぱられるような気がするのだ。
「自分をなくす」ために
一時期、自分の絵について悩んだという献一さん。そのとき1つの答えに導いてくれたのは画家・ゴッホのエピソードだった。
寒いある夜、牧師をしていたゴッホは、道端で貧しさのあまり上着を買えず薄衣を身にまとった人に出会う。ゴッホは「これを着てください」と、自らのコートを差し与えたが、それによって体調を崩してしまう。自分のものを分け与えるような暮らしを、ゴッホは続けていた。
「自分の内面が絵にも表れるのだろう」と考えた献一さんは、自らも奉仕活動をはじめる。両親と仲違いをした子どもたちの面倒をみるなど、地域の人たちの相談をひとつひとつ受けていった。そうして10年が経ったころ、献一さんは自分のクセが取れていくような感覚を覚えたという。
「ひたすら人のために暮らしていると、自分が苦しくなってくるんだよね。でもそのお陰で、エゴの無い絵が描けるようになった。他人を見つめすぎで自分を忘れちゃうのかな。皮が剥けて、絵で自分の思いを主張するのではなく、“光だけ”が描けるようになった」
そうしてできた絵の世界を、「風が吹き抜ける世界」と献一さんは呼んだ。
鑑賞者を敬遠させない、開け放たれた絵。その中では、点が折り重なり光の流れが生まれ…まるで風が吹いているようだ。
生命を懸けて
1枚の絵の制作には、身を削るようなる労力が必要だ。
「最初に完成したイメージがある訳じゃない。描いている中で見えてくるものがある。生命を懸けた戦いだよ。とくに光の色は難しい。でもだから続けられる」
「小学校の1年2年のころ、ルノアールやモネの絵を見て、この絵きれいだなあ、描いてみたいなあ、って思ってさ。もちろん壁にぶつかるときもある。でも最初の純粋な思いは変わらない。描きたいものを描くために、自分との勝負を今も続けている」
力強く語る献一さんのハートは熱い。
「私と私の絵に出会った人が、みんな元気になってほしい」
そう言って見せる深い笑顔に、作品と同じ、人を惹き寄せる力を感じた。献一さんが発するオーラは、作品に表れる柔らかな光のようだった。