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「二人の芸術家が創ったアトリエ」 人々が集い、守り継ぐもの

中本達也・臼井都記念 芸術資源館

国立駅から徒歩約15分。三角屋根のアトリエは、住宅街に囲まれてひっそりと立っている。
建築したのは、洋画家で多摩美術大学の教授だった中本達也とその妻で洋画家の臼井都だ。
それから70年、老朽化したアトリエを、元教え子と関係者らが自力で修復。
二人の作品を保存し社会への活用を目指す、「芸術資源館」としてオープンさせた。

2024.06.21

国立の森にアトリエを建てる

構想時のスケッチ。アトリエは中本作品のひとつと言える

戦後間もない1950年に、二人は新天地を求め雑木林ばかりだった国立に移り住み、中本さんが設計したアトリエ兼住居を、地元の大工や芸術家仲間と共に自力で建設した。

当時は資材も乏しかったため、近所の農家から分けてもらった廃材をリヤカーで運び込みながら、数年かけて少しずつ現在の形に作り上げていったようだ。

犬を抱えた中本。背後には建築資材が積み上げられている

何より革新的だったと言えるのは、夫婦それぞれのアトリエが配置されたことだ。

「競争の激しい美術の世界では、結婚したらどちらかが筆を折るのが当然とされてきた」と自身も日本画家である近藤幸夫館長は言う。

「中本は絵画へ情熱を捧げた同志として、共に新しい時代を切り開いていこうと考えていたのではないか。

臼井も周囲に、中本は天才だと繰り返し話していた。二人は互いに認め合う存在だったのだと思う」。

アトリエの中へ

機能性と独創性を合わせ持つアトリエ。外観もユニーク
赤色の木製のドアを開けると、壁一面に海辺の漂流物が飾られた小さな玄関がある。

すぐ右手には中本のアトリエ、真ん中に居間を挟んで左手に臼井のアトリエが配置されている。

玄関の壁。中本の故郷は、瀬戸内海の大島
建物に踏み入れたらきっとすぐに、この世界観に魅了されるに違いない。

どちらのアトリエも、天井が高く北側に高窓が開口されており、柔らかい光が部屋の中いっぱいに射し込んでいる。

中本のアトリエには、小屋裏があって梯子を使って登ることが出来た。

たった3帖ほどの小部屋ながら隠れ家的な雰囲気があり、子ども心に戻ったようでワクワクしてくる。

中本のアトリエ。作品が鑑賞できる。V字型の天井は5mある

臼井のアトリエ。作品が鑑賞できる。南側はテラスへ通じている

生活空間である居間には、台所と食堂、小上がりの畳部屋がある。

庭へと続く窓は南側に面していて、豊かな明るさが感じられる。

建築全ての細部にわたって特別な空気感が満ちていることに驚く。

臼井が好きな赤と中本をイメージさせる海のブルーが随所に

シンプルで明るい台所。当初は井戸から水を汲んでいた

子どもと動物たちでいっぱいの絵画教室

中本さんと臼井さんはアトリエで子どものための絵画教室を開いていた。

中本は道端の子どもたちに声をかけては、絵が好きだと知ると「来いよ」と誘っていたらしい。

今では考えられない牧歌的なエピソードだが、金銭目的ではなく、純粋に絵や工作の楽しみを知ってもらいたかったようだ。

その証拠に、月謝を支払えた生徒は1割にも満たなかったが、それでも二人は喜んで子どもたちを受け入れていた。

子どもたちと創作する中本

生徒は多い時で100人ほどいたらしい。当然、アトリエの広さには限りがある。

入れなかった子どもたちは周囲の林を走り回り、教室が空いたら順番に入った。

「缶の中いっぱいにクレヨンや鉛筆が挿してあって、画用紙に限らず広告のウラや段ボール、ボール紙など描けるものがあれば何でも使って、好きなものを描かせていたみたい」。

そう話す近藤氏は楽しそうだ。

「自分も子供たちの思いや発見を大切にしたい」。

二人と同じく美術の持つ力を信じている。

中本さんが51才で早世した後も臼井さんは教室を続け、60年以上子どもたちに絵を教えていた。

また、二人は動物が大好きで、犬、猫、ウサギ、ニワトリ、たくさんの動物たちも駆け回っていたようだ。

二人の意志を引き継ぐ者たち

2019年、臼井さんの高齢者施設への入所をきっかけに、アトリエの取り壊しが決まる。

片づけに集まった元教え子たちは、残された作品を寄贈できないか美術館に相談した。

その際、学芸員の一人にアトリエを保存することを勧められる。

海外では、作家の作品や資料を保存し研究等に活用している例も多い。

しかし、日本ではまだ少なくその必要性が広く知られていない。

日本で唯一の「芸術資源館」という名はここからきた。

そこから、再建の道が始まる。老朽化も激しく資金繰りも難しい。

それでも諦めなかった。
2020年、一般財団法人中本達也・臼井都記念芸術資源館を設立。

コロナ禍で困難を極めるも、自力で修復を始める。

2021年、元教え子・近隣の人々・賛同した地元の企業等、多くの人々の協力を得て、ついに開館にこぎつけた。

修復の参加者は、1日20人、延べ300人にわたる。

芸術資源館・館長 / 近藤幸夫氏

当初は元教え子と近隣の人達だけで始めたプロジェクトだったが、今ではボランティアの方をはじめ絵画教室に通う子どもの父母など、多方面にわたる人々が運営を手伝っている。

ガーデンギャラリー。旧国立駅舎と富士見台団地アーケードの木材を活用

思わず、気持ちのいい空間ですねと漏らすと、「古い建物はいくら素晴らしいデザインであっても、そのままでは輝かないんだよ」と教えてくれた。作品の展示方法、日々の清掃、修復、備品の選び方。常に丁寧な気配りを心掛けているそうだ。そうした積み重ねで、建物の魅力が引き出され、伸びやかな風がここには流れているのだ。

様々な草花が育つ庭。ボランティアの方々が大切に管理している

“3つ” の大切にしたいこと

近藤氏は館長として大切にしていることが ”3つ” あるという。

一つ目は、利用者の安全を守ること。二つ目は、中本・臼井の理念を壊さないこと。

「二人は『いのちを見つめる』作家だった。

対立や不寛容が広がっている今、社会で必要とされているテーマのひとつだと思う。

それらを作品や絵画教室を通して伝えていきたい」。

三つ目に、「作品と建物の修復・保存」と述べた。

二人の芸術家が残したもの。

それは、「作品やアトリエ」だけではなく、「自然や人間の繋がり」を大切にし、「困難を乗り越える姿」だった。

芸術資源館は、次の世代へ希望のバトンを渡すため今日もみんなで奮闘している。

臼井が使っていたパレット

ポートレート写真(臼井)と作品

中本達也(なかもと たつや)
1922年、山口県生まれ。画家を目指し、帝国美術学校(現・武蔵野美術大学)で学んでいたが、学徒出陣となる。

戦後、再び絵画の世界へと戻り、1959年安井賞を受賞。

多摩美術大学油画科教授。

昭和の作家たちに愛され手がけた挿絵・装画は数百冊以上。

人を惹きつける魅力を持った天才肌の人だった。1973年死去。享年51才。

臼井都(うすい みやこ)
1925年、東京生まれ。女子美術専門学校(現・女子美術大学)を卒業。

1956年、自由美術家協会展で優秀作家賞を受賞。

「ピノッキオのぼうけん」や「きょうの料理」などの挿絵・装画を手がける。

木の実や種を好んで描き続けた。ひたむきな情熱を持った謙虚な人だった。2021年死去。享年97才。

中本達也・臼井都記念 芸術資源館 

https://www.nu-art.tokyo/first/

住所: 東京都国立市東3丁目15ー11
開館時間: 水〜日(第1~3週目) / 13:00~16:00 
第4週目以降、月末までは休館となります。

◆無料で館内をご覧いただけます。

国立市子どもの居場所・実施時間: 水~日(第1~3週目) / 13:00~16:00

子ども絵画教室 / 大人の絵画教室 / 絵画修復インターン / 出張講座
その他にも講座あります。ぜひ、ホームページをご覧ください。 ボランティア募集中!

(取材ライター:岡本ともこ)