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TACHIKAWA
BILLBOAD
1983年(昭和58年)頃の、旧立川飛行場(現在のファーレ立川)
この大規模な事業を受け、革新的な案を打ち出したのは、アートディレクターとして世界的に活躍していた、北川フラムさんが代表を務めるアートフロントギャラリーだった。
コンセプトは3つ。「世界を映す街(この混沌とした時代に生きる多様な考えを埋め込んでいく)」であること。「機能を美術に!都市の機能をアート化する」こと。「驚きと発見の街」街を回遊して見つけて驚くしかけがしてある)」であること。
この3つのコンセプトが、北川フラムさんにより、それぞれの作家に伝えられた。
1987年(昭和62年)、ファーレ立川の建設前の町並み
1992年(平成4年)、ファーレ立川の建設中の様子
5・9ヘクタールの広大なエリアに、36か国総勢92人の作家による109点の作品が設置された。「基地の街」から「文化の街」を目指し、イタリア語の「FARE(創る・創造する・生み出すの意)」に、立川の「T」をつけ、このエリアは「FARET(ファーレ)立川」と名付けられ1994年10月13日、ついに新しい街に生まれ変わった。
アート作品の設置作業の模様
開発には困難を極めたが、見事完成したファーレ立川は、1994年度の日本都市計画学会設計計画賞を受賞。国内外の都市計画からも高い評価を受けた。
しかし、他に類を見ないだけに、当時は全ての人に理解が届いたわけではなかった。
今年のファーレ倶楽部定例会
1996年、ファーレ立川の魅力や価値を、より多くの人々に深く知ってもらうため、市はアートツアーコンダクター養成講座を開講。ファーレ立川に点在するアート作品のコンセプトや、そしてそれが「なぜ、できたか?」などを学ぶ講座に、多くの市民は関心を寄せた。
その翌年「このエリアの魅力や、世界的な価値をより多くの人にもっと知ってほしい」と講座受講生ら有志が集まり、「ファーレ倶楽部」がスタート。現在、同倶楽部会長である松坂幸江さんも、そんな1人だった。
「その頃、立川に引っ越してきたばかりで右も左もわからなかった。私自身、美術が好きなこともあって、この魅力的なエリアのことを知り、興味が止まりませんでしたね」と当時を振り替える。
ファーレ倶楽部のガイドの模様
ファーレ倶楽部は、その後、ファーレ立川の作品を解説するボランティアガイドとして活動。これまで20年間で24,000人を超える人たちを案内してきた。
ファーレ倶楽部の、積極的な活動の甲斐もあり、次第にその価値を認める声も多くなってきた。
「まち全体でこのエリアを守っていこう」と、市、周辺企業、個人らが一丸となった「ファーレ立川アート管理委員会」が発足。
都市と一体となった作品群だけに次第に傷み始め、将来への作品の維持などが不安視されていたが、「ファーレ立川アート管理委員会」の協力で修復作業が行われ、HPの開設、チラシ作成、外国語対応専用のアプリの開発など、このエリアの魅力発信を、街一丸となって行っていくまでとなった。
作品群の清掃イベント「ぴかぴかワークショップ」の模様
「ぴかぴかワークショップ」は誰もが楽しめるように、企画されている
2008年からは、立川市の小学5年生の図工の授業にファーレ立川のことが取り入れられ、見学ツアーが組み込まれるようになった。今、このエリアは「オール立川」に支えられ、愛される、地域の宝となった。
「この街ってもっと面白いんだよ!ということを多くの人に知ってほしい」とファーレ倶楽部の松坂さん。「美術館と違って触れるアートが街に点在しているのがファーレ立川。街を楽しく歩いて、1人でも多くの人にその魅力に触れてほしい」と笑顔で話していた。
海外から訪れる人をガイドする同倶楽部メンバー
同倶楽部では定期的に、清掃活動と組み合わせたワークショップやイベントなどをも企画している。
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