
TACHIKAWA
BILLBOAD
「絵以外何もいらない子ども時代から、写真との出会いへ」
「小さな頃から絵を描くのが大好きで、『自分は将来、絵を描く人になるんだ』思い込んでいました。
絵をかいていれば何もいらないという子ども時代だったんです。
中学生頃になると絵以外の、グラフィックデザインにも興味が広がりました。
レコードジャケットや漫画や雑誌など様々な分野から影響を強く受けて。
カセットテープのレーベル作りに夢中になったりしていました。
当時はまだパソコンもないし、手描きや切り貼りで“グラフィックデザインごっこ”を楽しんでいました」。
高校卒業後は当然のように美術系へ進もうと考えていたが、北海道には美大がなく、親からは道外に出すのは経済的に難しいと告げられ、地元の美術学部がある女子短大へ進学。
進学した美術学部には油彩科とデザイン科とがあり、迷わずデザイン科を選んだという。
「女子短大進学前には、美大受験予備校に通いました。周りはもう、藝大とか武蔵美、多摩美、女子美・・・って感じで。
美術の世界にもヒエラルキーがあるんだなと、痛感しました。
『じゃあ、そこに進学できない時点でもう負けじゃん』と、その時は思ってしまったんですよね。
今ならそんなことないってわかるけど、当時の私にはそれが見えなかった。
ずっと、絵を描く人、美術をやる人、デザインをする人になると信じてきたのに、”ああもう無理なんだ”と目的を見失って、やさぐれちゃってました。
そんな中、選択科目に“写真”があったんです。コンパクトカメラでスナップを撮るのは好きでしたけれど一眼レフは使ったことがないなあ、と。
亡き父が愛用していたNikon FEが手元にあったこともあって、写真を選んだです」と写真に進むこととなるきっかけを話す。
「カメラマンって、どうやってなるのだろう?」
「大学で写真を学び始め、写真の面白さに引き込まれていきました。
就職の時期に近づいてきた頃、撮影であちらこちらに飛び回れるカメラマンの仕事って『自分には向いている!』と感じたのですがなり方がわからない。
どうしたらと考えていた頃、体裁だけで行った合同就職説明会で、”撮影スタジオあり”とパンフに書いてある東京の印刷会社を発見。
『カメラマンになる方法でも聞いてみよう』と、気楽にブースへ行ったら、ほぼ即採用みたいなものでした。
社長が北海道出身で『必ず何人かは北海道から採用する』という面白い会社で。
こうしてとんとん拍子で東京へ出て、クリエイティブ部門にある撮影スタジオで働くことになり、基礎的な撮影方法は会社で学びました」。
「アーティスト、俳優。表現者の撮影にのめりこむ」
「高校生の頃から『ロッキング・オン』などの音楽雑誌が大好きで、写真を始めてからは、アーティストのポートレート写真を撮りたいという野望も持っていました。
そんなとき、別部署の先輩から『知り合いのフリーのカメラマンがアシスタント探してるんだけど、どう?』と声をかけられて、もう『渡りに船!』って感じでしたね。写真学校にも通ってないし、下積みもなかったから。またもやチャンス到来ですよ。
そのフリーカメラマンのもとで、仕事の段取りから現場での立ち回りまでを叩き込まれました。
振り返ってみると、私は趣味として撮る期間なんてほぼなくて、写真は最初から私の”仕事”だったんですよね」。
フリーで独立時も特別な準備はせず、周囲もゆるく『なんとかなる』という空気の中で現場を渡り歩いたと駆け出しだった当時を振り返る。
「仕事として、写真を必要とする場所でカメラを介し様々な写真を撮ってきました。
その間もずっとポートレートを撮りたいという思いがあり。きっと言葉に出していたんですよね。
インタビュー撮影などでいろんな人達と知り合っていく中で映画雑誌などのポートレート撮影も増えていきました。
映画の撮影現場にもスチールカメラマンとしても長く関わっていて、役者さんが本気の芝居をしているところに立ち会い、至近距離で撮影ができたことは、今でも貴重な体験だったと思います。
俳優さんに限らず、表現力豊かな方が出してくるものを撮影できた時の高揚感は中毒性があるんです。
大変なことも沢山ありましたが、それが、長年カメラマンを続けてこられた理由の一つだと思います」と撮影が持つ独特の中毒性を教えてくれた。
本多さんがカメラマンの職に就くまでの話の流れに、本当に天職という言葉がぴったりだと思えた。
本多晃子さん撮影のCDジャケット
「好奇心から始まった、映画製作」
「ちょうどフィルムカメラがデジタルカメラに移行していった頃、仕事で使うデジタルカメラに動画機能が付き始めたんです。
新しいことや面白いことが好きで、機械も好きですから、当然試してみたくなりますよね。
好奇心から全てが始まる性格なので、せっかく動画機能があるなら動画をやろうと思い、友人たちに相談していたらいつの間にか短編映画を撮る流れになっていたんです。
スチールカメラマンとして映画の現場にいつもいたので、できるような気がしてしまった。
けれど非常に、それはそれは、大変でした。解っているようで全く解っていなかった。
今でも忘れられない後悔や悔しさはあるけれど、この映画を撮影したことが映像制作への関心を広げたし、物を創る・表現する、ということのへの本質的なリスペクトと意欲が生まれました。
やってみたからこそのことだと思います」と新しい道への挑戦で得たものの大きさを振り返る。
本多晃子さんの監督作品「庭先の花が、」と、著書「鈴木清順閑話集〜そんなことはもう忘れたよ」
「コミュニティの楽しさ」
「都心に住んでいた時、小平にはお友達と一緒にアトリエを借りていました。
震災と更新時期も重なって、都心からそのアトリエに引っ越したんです。
映画を撮ったのは、そのアトリエのあった商店街でした。
アトリエ自体は、今はもう取り壊しになってしまって、そこからは立ち退いたんですけどね。
もともと地域のつながりがあったわけではなく、この映画撮影がきっかけでコミュニティが生まれ、既存の地域グループともつながるようになりました。
小平にずっと住むつもりはなかったのに、そのご近所コミュニティの広がりが楽しくなってしまって。結局それ以来、ずっと住み続けています」。
本多さんの話は不思議と繋がりが途切れることがない。
コミュニティの話を伺っているタイミングでカレーを食べに訪れた、本多さんのご近所仲間のカメラマンの有賀幹夫さん
有賀幹夫さんは、本多さんが大好きだった「ロッキン・オン」でも常連のカメラマンさん
「仕事で使っているカメラはずっとNikonです。プライベートは、最近ではFUJIFILM GFXのボディーにマウントアダプターでCONTAX645用のPlanar80mmを装着して使用しています。
このレンズの写り方が好きで」と愛機のカスタム一眼レフを見せてくれた。
「これからのこと」
「写真が好きだからこれからも一番やりたいことは写真。依頼される形ではなく自己発露的な作品を作っていきたいです。
映像に関しては、写真よりも即興性があり、他の要素とからめやすく見せやすい。
AIで写真を動かすことも試してみたいですね。
”トリマリアキプロジェクト”という、楽器奏者との映像コラボユニットライブを定期的に行っているのですが、この秋ぐちにはソロシンガー3組とのライブも控えていて、そこではVJ的なことをやろうかなと考えています」。
トリマリアキプロジェクト:アイリッシュ・ハープ奏者の田中麻里、写真家の本多晃子、ニッケルハルパ(スゥエーデンの民族楽器)奏者のトリタニタツシの3名で取り組んでいる音楽と映像の融合プロジェクト
「仕事としては写真しかやってこなかったので、今後、全く違う仕事というのはできないかもしれないんですけど。
新しい出会いはいつでも受け入れられるようにしています。
性格ですね。なんでも気軽にやってしまうフットワークの軽さを活かして、タイミングや流れに乗って面白いと思ったことには挑戦してきましたし、これからも、何事に関してもそうありたいです。
同時に、写真だからこそ表現していけること、自分の内なる世界を探求したい気持ちもある。めんどうだなあと思うこともありますが。またいずれ、原点に戻って、絵も描き始めたいです」。
本多さんからの予告に、心が躍った。
■本多晃子 略歴
北海道生出身。小平在住。
フリーの広告カメラマンのアシスタントを経たのち、1996年よりフリー。
雑誌を中心に俳優やアイドルなどのポートレートを中心に活躍中。
2015年は監督として自主制作短編映画「庭先の花が、」を制作。
その後、旅をテーマにした写真展「旅の途中~On the road~」(ヘルシンキ・ギャラリーPLATZ/2016)
「辿り着いたらいつも明るい」(東京・ブックギャラリーポポタム/2017)を行う。
2018年には自身の企画によるフォトブック、「そんなことはもう忘れたよ〜鈴木清順閑話集〜」(写真・本多晃子/文・八幡薫)をスペースシャワーネットワーク出版より刊行。
問い合わせ
HP:https://akikohonda.com/
Instagram:https://www.instagram.com/akikohondalyricolor/
X:https://x.com/nikkolyricolor
トリマリアキProjebt:https://torimariaki.studio.site/
(取材ライター: 高橋真理)