ファーレ立川が、「アートと歩む景観まちづくり」として、「都市景観の日」実行委員会会長賞を受賞した。評価されたのは、街に点在する109点のパブリックアートだけではない。完成から30年以上にわたり、行政、企業、市民、専門家、教育機関などが関わり、一つの作品も欠けることなく守り育ててきた、その仕組みと活動だ。
その始まりは、米軍基地跡地から新しいまちをつくる、立川の再開発だった。1977年の米軍立川基地の全面返還を経て、基地跡地の再開発が進む中、アートを取り入れ、1994年に誕生したのが「ファーレ立川」だ。名前は、イタリア語で「創る、生み出す」を意味する「FARE」に、立川の頭文字「T」を加えたもの。
コンセプトは3つ。多様な国や文化、価値観を取り込む「世界を映す街」、都市の機能をアートに変える「機能(ファンクション)を美術(フィクション)に!」、歩いて楽しむ「驚きと発見の街」だ。36か国92人の作家による109点の作品が点在し、ベンチや車止め、換気口など、都市の機能にもアートが組み込まれている。
誕生したファーレ立川は、たちまち大きな注目を集めた。オープンからわずか3か月で、新聞、雑誌、テレビ、ラジオ、海外メディアなど200を超える媒体で紹介され、NHK「日曜美術館」でも特集。ファーレ立川のアートディレクターとして構想・制作を担った北川フラムさんによると、まちづくりそのものが美術番組で特集されるのは、当時の日本では初めてのことだったという。国内の建築、都市計画、美術関係者をはじめ、海外からも視察が訪れ、1994年度には日本都市計画学会の設計計画賞を受賞。再開発の枠を超え、美術や文化、都市計画の分野からも注目される新しいまちづくりとして、国内外に知られていった。
しかし、ファーレの歩みは完成して終わりではなかった。1997年には市民ボランティア団体「ファーレ倶楽部」が結成され、作品案内や清掃などの活動を開始。これまでに2万人以上を案内してきた。行政やビルオーナーらも加わり、作品の修復、イベント、子どもたちの鑑賞教室など、アートを守り、受け継ぐ活動が30年以上続いている。2008年からは立川市の小学生の授業にも取り入れられ、地域の「生きた教材」に。今回の審査でも、作品を保存するだけでなく、市民が親しみ、学び、次世代へ継承する文化へと育ててきた点が評価された。
その30年を、ファーレに関わってきた人たちはどう見ているのか。構想を担ったアートディレクター・北川フラムさん、ファーレ立川アート管理委員会委員長・川口哲生さん、市民として活動を続けてきたファーレ倶楽部前会長・松坂幸江さん、ガイド・木原令子さんに話を聞いた。
どのような時代と街の中から生まれ、30年以上にわたって守り継がれてきたのか。そして、次の時代へ何をつないでいくのか。それぞれの視点から、ファーレの誕生から現在、そしてこれからをたどる。

当時、立川はどのような街だったのでしょうか。都市が抱えていた課題も含め、そこに新しい街をつくることにどのような可能性を感じていましたか?
今、大原簿記法律専門学校があるあたりには、当時の食堂や基地の建物がまだ残っていました。駅から見ると一番遠い側ですね。大きな建物や昔の店の名残もあって、基地だった頃の面影がまだ残っていたのを覚えています。 一方で、昭和記念公園ができて、新しい街が少しずつ形になり始めていた時代でもありました。それまで基地があったことで、街が駅を中心に動いていなかったんですね。交通の問題も大きかった。自転車も整理されていないし、中心部へ向かうバスや鉄道など、交通の仕組みも十分にできていない。都市の中心がぼけているような状態でした。 同時に、世界も大きく変わろうとしていました。冷戦が終わり、インターネットが民間でも使われるようになって、世界がグローバルにつながっていく。いろいろな意味で良くなると言われていた時代です。一方、日本ではバブルが終わろうとしていました。 そういう大きな時代の流れの中で出てきたのが、「世界を映す街」をつくる構想です。立川を世界と地域がつながっていることが見える街にしようと考えました。
1994年という時代を振り返ると、そこには「20世紀末的な世界精神」のようなものを感じます。 立川では1977年に米軍基地が返還され、昭和記念公園ができ、駅周辺の再開発も進んでいました。先輩たちの世代には、かつての「基地とギャンブルのまち」というイメージを変え、新しい立川をつくっていこうという思いが強かったと思います。一方、世界ではベルリンの壁が崩れ、「世界が変わるんだ」という前向きな空気があった。そうした時代の中で、さまざまな考えを持つ、多様な作家たちをここに一堂に集めたというのは、すごいことです。 日本ではバブル崩壊もあって、難しさを抱えていた時期でもありました。それでも、立川が新しい街へ変わろうとしていた時期と、「世界が変わる」という20世紀末の空気が重なって生まれたのが、ファーレだったような気がしています。今はまた、当時とは全く対極の時代に振れてしまっているのかもしれませんが。
1984年に下宿先を探しに来た頃は、本当に何もなくがらんとしていて、「ここには住めないな」と思ったほど寂しい街だったんです。その後、結婚して立川に越してきた時には、ちょうどファーレ立川が完成していて、「何かすごいものができたらしい」と聞きました。 今では街にアートがあることが当たり前に見えるかもしれませんが、当時は、有名な作家の本物の作品がこれだけたくさん街の中にあること自体が驚きでした。「こんな画期的なことはないんじゃないか」と思い、もっと知りたくなって講座にも通いました。ファーレ立川のアートプロジェクトに携わった人たちの思いに触れると、今でもわくわくします。よくこれだけ夢のような街をつくったものだと思わずにはいられません。
私は立川に引っ越してきて10年ぐらいたっていましたが、当時は子どもが小さく、この辺りまで出てくることはほとんどありませんでした。自宅はここからバスで30分ぐらいのところですが、普段は住んでいる地域からあまり出なかったんです。1996年10月頃にアートコンダクター養成講座があり、それに応募したことが、ファーレ立川に関わるきっかけになりました。

これだけの規模のパブリックアートを、都市計画の中でどのように実現したのでしょうか?
街にオブジェを置くのではなく、都市の機能そのものをアートにすることが重要だと考えました。当時、世界には、建設費の1パーセントを文化に充てる「1パーセント条例」という考え方がありました。日本で1パーセントは難しいけれど、0.3パーセントならできる。当時、約3000億円の都市計画費があり、その0.3パーセントで予算は9億円に決めました。 僕がコンペで選ばれた時には、建物の計画はすでに決まり、部材の発注まで進んでいました。そこで、照明や看板、植栽など、街に必要な機能や外構にアートを組み込んでいったんです。公団も、アートを中心にしたまちづくりに賛同してくれました。基本計画にあったのは、みんなに愛される街をつくること。そのための柱が、「世界」「機能」「回遊性」でした。
私は、建築的な機能、ファンクションをアートにするというコンセプトが、ファーレの大きな特徴だと感じています。多様な考え方を持つ作家や作品を世界から集めるだけでなく、車止めや換気口など、街に必要な機能そのものをアートにしていく。こうした要素が、ファーレに他のパブリックアートとは違う明確な個性を与えたと思います。
北川さんは、ファーレのアーティストを集めるために、世界中を回って、一人ひとり会いに行ったそうですね。当時のことを聞かせてください。
アートの選定では、「こういうものがいい」という考えはなく、100人いたら100人、みんな違う人間ですから、均質化に向かう時代の中で、「100人100様のアートをやろう」と。国も違う、手法も違う。できるだけ多様な作家を集めようとしました。 ただ、当時は「北川フラム」なんて誰も知らないし、僕にとっても初めてのプロジェクトですから、もう自分で行くしかない。候補に挙げたアーティストには、ほぼ全員会いに行きました。 アメリカのマーティン・プーリエのところへ行った時には、一度断られたんです。遠くまで車で行ったのに、家にも入れてもらえない。でも、そのまま帰るわけにもいかない。門のあたりにいたら彼の犬がいて、しばらく遊んでいたんです。僕、犬とは相性がいいので(笑)。それを見ていたらしく、少し気を許してくれたのか、会って作品をつくってくれました。 そうやって一人ひとり会いに行って、お願いして回りました。アトリエで作品を見ながら、「これを使いたい」「それならこっちの方がいいんじゃないか」と話したりして。ほぼすべての作家に直接会いながら、つくっていきました。

完成当初から、作品は設置して終わりではなく、その後も人々が関わり続けることが重要だと考えられていました。30年以上を経て、その構想が行政、企業、市民など多くの人々に受け継がれてきたことを、今どのように見ていますか?
フラムさんの素晴らしいコンセプトを持って設置されたこと自体、すごい意味があるけれど、やはり大切なのは30年間それを守り続けた活動があったことです。当初からファーレ倶楽部が、アートと地域をつなぐ地道な活動を続けてきました。そして、この30年間には守る人の輪が大きく広がる契機が何度かありました。 一つ目が、オープンから10年目の2004年です。立川市から、ビルの区分所有者で組織するファーレ協議会にアートの修復・再生の話があり、翌2005年、ファーレ協議会、立川市、ファーレ倶楽部の3者で「ファーレアート管理委員会」を立ち上げました。さらに多くの市民団体や市民に呼びかけ、30以上の団体が参加する「ファーレアート再生実行委員会」へと広がっていきました。2005年から06年の2年間で、ビルオーナーの負担金や国・都の助成金、市民、企業、団体からの支援などにより約3,500万円を集め、38作品41件を修復・再生しました。このほか、アートツアーやピカピカアート、アートコンダクターの養成、次世代アートの支援なども行いました。 もう一つの大きな契機が20年目です。2012年の現況調査で40作品に問題が見つかったことを受け、立川商工会議所、立川商店街振興組合連合会、立川観光協会、大学、民間企業、公的団体などで、再び「ファーレ立川アート再生実行委員会」を組織しました。2014年から16年にかけて、協賛金や民間都市開発機構の助成金など約5,600万円を集め、42作品を修復・再生しました。 大切なのは、修復・再生を通じて、地域を超えた市民や企業の方々も、ファーレアートやこの街区の意味と価値に気づいていったことだと思います。これだけの資金を集めるには、ここの意味と価値を伝えなければ誰も動かない。その積み重ねが、30年間続いてきた大きな理由だと思っています。
ファーレ倶楽部は、初代会長の中島満喜子さんを中心に長年、淡々と活動を続けてきました。会の発足当時は、北川フラムさんが行っていたようなアートツアーを私たちがまねできるわけもなく、ファーレ倶楽部にアートの案内を希望する人もあまりいませんでした。「何を目指せばいいんだろう」と心配しながらのスタートでした。 それでも、ファーレ立川のアートに参加したアーティストが個展を開くと聞けば、みんなで作品を見に行ったり、話を聞きに行ったりしました。作品がここにあると知った時の衝撃や興奮もあり、自分たち自身がもっとよく知りたいという思いで勉強を続けてきました。 しばらくすると、まち歩きをする団体が秋の芸術を求めて訪れたり、市立の小学生が授業で来たりするようになりました。会員が勉強のために始めた、10月13日のファーレ立川の誕生日に行う「全作品のアートツアー」も、毎年の行事になりました。NHKがアート清掃を取材した際には、全作品を巡るアートツアーを全国ネットで告知してくださったことがあります。その年のオープン記念のアートツアーは集合場所に人があふれ、私たちも大慌てでした。20人ずつのグループが4コースに分かれ、3時間半をかけて案内しました。「面白かった」「楽しかった」という言葉をいただいて、ほっとしたことを覚えています。
それからは、近隣の子ども会から夏休みに問い合わせが来たり、自治会の方が参加したり、活動の幅も少しずつ広がりました。子どもたちに説明するときは、小学5年生くらいでも分かるように、できるだけ難しい言葉を使わないようにしています。子どもたちが作品を見て驚いてくれるのが、一番面白いですね。 以前はツアーが終わった後、ユニフォームを着ていない時でも、街で子どもたちから「こんにちは」と声をかけられることがありました。雨の日にはスライドを使って説明したこともあります。そうやって、その時々で工夫しながら活動を続けてきました。

アートを設置するというのは、人の土地にものをつくるわけですから、とにかく分かってもらうしかない。 きちんと説明して、ご案内をして、アートに親しむ人を増やしていかなきゃいけないんです。建物ができてから作品を設置するまでの2、3か月に、僕はツアーを200本ぐらいやりました。その活動を続けていくためにファーレ倶楽部をつくり、ツアーもみんなで担っていけるようにしました。 ファーレ倶楽部はよく頑張りましたね。今でも申し込みがあればツアーをやっているし、勉強会をしたり、ファーレのアーティストが展覧会を開けばみんなで見に行ったりしている。オープンしてからも、関わり続けていく。 そのための活動を、ずっと続けてくれています。
そうした30年の積み重ねを、これからどのように引き継いでいくのでしょうか?
屋外にあるパブリックアートですから、破損や経年劣化は避けられません。10年ごとに大規模な修復を行うと、人的にも財政的にも大きな負担が一度に来る。そこで今は、2016年に策定した「ファーレ立川アート保全活用方針」に基づき、ファーレ協議会、ファーレ倶楽部、立川市地域文化振興財団、立川市で常設のファーレアート管理委員会をつくり、作品の状態を見ながら優先順位をつけ、計画的な保全や、アートを活かしたブランド化、情報発信に取り組んでいます。

アート清掃や鑑賞教室、イベントなど、市民が関わる活動が長年続けられてきました。そうした積み重ねによって、ファーレ立川は市民にとってどのような存在へと変わってきたのでしょうか?
市民にとって本当に「自分たちのまちのもの」になるには、まだまだこれからだと思っています。最初は私たちも、どうしていいか分からないまま淡々と活動していました。でも続けていくうちに、「これは大事なことなんだ」と実感するようになり、一緒に活動する人を増やそうと努力するようになりました。 清掃活動も続けてきましたし、「ここに何かあるな。なんだろう」と興味を持ってもらうことから始まるのだと思います。私たち自身で講座を開き、新しい人に入ってもらう取り組みもしてきました。講座で習ったことも、最初からすべて理解できるわけではありません。活動を続け、本を読んだり作品について勉強したりするうちに、「そういうことなのか」と少しずつ分かってくる。そういう積み重ねだったと思います。もう30年ですから、次の世代の人たちにもどんどん入ってきてもらいたいですね。30年があっという間だったのか、長かったのかは分かりません。
新しく入ってきた人にはツアーの原稿もありますが、最近は原稿に書いてあることだけではなく、「もっと深いところまで知りたい」と思うようになってくれています。それはとてもうれしいですね。

いろんな人から、「小さい頃、立川にいた」とか、「親と一緒に行った」とか、そういう話を聞きます。それが自分のふるさとのものとして、いろんな人に知られているという意味では、誇りですよね。今はもう、米軍基地のことを話す人もほとんどいない。でも、「ファーレなら知ってるよ」と、どこか遠くに行った時に言われたら、それは嬉しい。それに、自分たちがメンテナンスや掃除、案内までやっているから、ファミリアなものになっている。それが一番大きいですね。 作品のレベルで言えば、今では東京の中でも大きな資源、資産になっている。お金には換算できませんけれど、それだけのものを自分たちが関わって守っているというプライドが、ものすごくあると思いますね。最初のうちは、僕もずっと一緒に回っていました。 それから30年以上ですからね。いろんな活動を続けてこられたのも、そういう誇りや愛着があるからでしょうね。もう頭が下がります。
ファーレの30年間は、氏神様を祀ることとのアナロジーを感じるんですね。もともとは限られた人たちのものだったものが、みんなで大切にすることで、地域の人たちをつなぐ存在になっていく。ファーレも最初は、開発に運命共同体として乗った区分所有者や、ここで働く人たちのものだった。それが修復や再生を重ねる中で、より多くの人たちがアートに意味を感じるようになっていった。ファーレアートが、地域のコミュニティを束ねる役目をしたと思います。 ここは、もともと基地だった場所です。土地が囲われ、ある日いきなり11棟のビルが忽然と現れた。そこで必要だったのが、失われた土地の記憶を再生しながら、新しいコミュニティをどうつくっていくかということでした。この30年間、アートを修復し、再生しながら多くの人が関わってきた。その積み重ねが、この場所に新しいコミュニティをつくってきたと感じています。 今でも市内の小学5年生が毎年ここを訪れている。そうした積み重ねから、アートへの関心や興味が生まれていくことにも、大きな意味があるのかもしれません。
今回は、109点の作品を守り、市民が関わりながら継承してきた30年間の取り組みが評価されました。この受賞をどう受け止めていますか?
そういうことがあるのかと思いました。一回もらっているものだから、不思議だなと。でも、嬉しいですね。年々、ファーレは文化や地域づくり、美術という面で、相対的な価値がぐんぐん上がっていますよね。今でも教科書に取り上げられているし、あれだけのレベルの作品が、あれだけの数、しかも常設でいつでも見られるというのは、ものすごく強いと思います。 最初は大変でした。「いらない」と言われることもあった。でも、「一つひとつの作品だけを見るんじゃなくて、街全体で見れば、こういう面白さが生まれるんだよ」と伝えていった。それをファーレ倶楽部が受け継いでくれた。本当に偉いなと思いますね。市やファーレ立川アート管理委員会の人たちも、お金をつくったりしながら支えてくれた。そうやって、ファーレへの愛着ができてきたんだと思います。
最初から「こうなりたい」と思って活動してきたわけではありません。続けているうちに、だんだん今の形になってきたという感覚です。将来どうなっていくかは分かりませんが、ここにはいい作品がたくさんあります。多くの人に作品を好きになってもらって、みんなで広めて、大切にしていってほしいですね。
今回受賞したことで、多くの方に改めてファーレ立川を見てもらい、「ここをもっと大切にしよう、守っていこう」と思ってもらう一つのきっかけになればいいと思っています。 作品を守るための管理やメンテナンスの仕組みも、街ができてから少しずつつくられてきました。いろいろな人が関わりながら作品を管理し、10年ごとに修復もされています。今では、アートを大切に思ってくださる人たちに街が見守られていると感じます。

今回の受賞は、30年やってきたことへの一つのご褒美だと思います。ただ、同時にターニングポイントでもあるんでしょうね。これからファーレアートとファーレ街区をどう受け継いでいくのかを考える時期に来ています。 これまでのように大きな資金を集めるのは難しいので、計画的な保全が大切になります。一方で、社会や経済が変われば、11棟のビルの業態もオーナーも変わるし、建物そのものにも寿命がある。建物と一体になったアートや、物理的に寿命を迎える作品をどうするのか。作家、オーナー、市民も含めて、合意をつくっていく必要があります。 そこで考えなければならないのが、「何をもってファーレアートなのか」ということです。109点という最初の形が100パーセント維持されていなければならないのか。あるいは、建物の機能、ファンクションをアート化するというコンセプトが残っていれば、ファーレアートと言えるのか。何をもって「ファーレアートとして存続している」とするのか。 残そう、保全しようとしても、保全しきれないものは出てくる。その時に、どう更新し、どう継続していくのか。 作ったものを作ったっぱなしにせず、30年はみんなで頑張ってきた。じゃあ、この先はどういう形だったらいいんだろう、と。
その「次のファーレ」を考えるのは、誰なのでしょうか。
それは私たちの世代だけで決める話ではないと思うんですね。ファーレの開設に取り組んだ世代がいて、それを引き継いで30年間やってきた私たちの世代がいる。その先には、もっと若い世代も登場してくるでしょう。 そして、個々のビルオーナーの経済的合理性と、エリア全体の価値を高めることを、どちらか一方ではなく両立するものとして描くことも極めて大切です。街としての調和や美しさが、エリア全体の価値を高めていく。そういうことを本気で考える時代になっていると思います。次の世代ですね。今回の30周年の大賞が、そのスタートになる。 みんながそう捉えられたらいいんじゃないでしょうか。
ファーレ立川を次の世代につないでいくためには、作品を守るだけでなく、この場所をどう使っていくかという視点も必要だと思います。これから、ファーレがどのような場所になっていくとよいと考えていますか。
ファーレはすごく大きな資源ですが、まだ活かしきれていないところもあると思います。例えばインバウンドでも、アートに興味のある方々にとって魅力的な場所になるはずですが、まだ望むレベルにはいっていません。もったいないのは、サンサンロードには大きな人流ができたのに、ファーレ街区には土日や夜の人流があまりないことです。もともとは1階、2階に商業スペースや店舗が入ることもイメージされていましたが、実際にはこちら側は業務系の街区になった。だから、サンサンロードから高島屋の赤い植木鉢のところを通ってこちら側へ人を呼び、回遊を生む仕組みが必要だと思います。 例えば、夜にはお酒を出したり、キッチンカーを出したりして、ナイトタイムにもこの場所を使っていく。 ファーレパーティーもホテルではなく、ここにテントを張って、みんなが集う。今は道路になっているところを象徴的な広場にするなど、場所の用途自体を変えていってもいいと思います。ミュージアムデイなども、どうしてもサンサンロード側が中心になります。そこからファーレへ人が流れてくるようになれば、街の中を回遊しながら、この場所やアートに触れてもらえる。 そういう使い方ができたらいいなと思います。
もっと多くの人たちがこの街に来て、アートを楽しんでいる姿を見たいですね。作品を守ることはもちろんですが、ここを訪れた人たちに、ファーレ立川をつくった人たちの思いや、アートと共にある街の面白さを伝えていきたいと思っています。
これからもツアーをしたり、掃除をしたりしながら、市民の皆さんにファーレ立川のことを知ってもらいたいです。ここにはいい作品がたくさんありますから、もっと多くの人に好きになってもらって、みんなで楽しみながら大切にしていってほしいですね。
立川には昭和記念公園という、すごい施設があります。ファーレがあって、昭和記念公園がある。この二つがあるというのは、まちづくりにとってものすごく強い。 考えられないくらいの資源を持っているんです。立川には、それだけ大きな可能性がある。 ファーレは、これだけ街も社会も変わってきた中で、ちゃんと残っていること自体が奇跡的だと僕は思いますね。子どもたちも今でも授業で来ていると思いますが、これからも来てくれるといい。それが希望です。
Profile

ファーレ立川アート管理委員会委員長/ファーレ協議会会長/立川商工会議所会頭
ファーレ立川アート管理委員会の委員として、アートの保全・活用に携わる。2022年より同委員会委員長を務める。また、ファーレ立川街区のビルオーナーで組織する「ファーレ協議会」の会長として、街なみ管理協定に基づく快適で安全な街づくりを推進するとともに、広告物などの適正な管理を含め、良好な街なみの維持・向上に取り組んでいる。
ファーレ立川アート管理委員会は、ファーレ立川に設置された36カ国92人の作家による109点のパブリックアートを守り、活かしていくための組織。ビル所有者、立川市、市民団体「ファーレ倶楽部」などが連携し、10年、20年の節目には大規模な修復・再生事業を実施。現在は作品の状態に応じた計画的な保全を進めるほか、アートツアーやメンテナンス、イベント、情報発信などを通じて、ファーレ立川アートを次世代へつなぐ活動に取り組んでいる。
- ファーレ(FARET)立川:https://www.faretart.jp/
- ファーレ協議会(事務局・立川都市センター):https://www.t-t-c.co.jp/tikukanri.html
- 立川市商工会議所:https://tachikawa.or.jp/

ファーレ倶楽部前会長/ファーレ倶楽部ガイド
ファーレ立川のアートを守り、その魅力を伝える市民ボランティア団体。1997年に結成され、アートガイドや清掃活動、作家を招いたワークショップなどを行っている。ファーレ立川には、36か国92人の作家による109点のアートが設置されており、車止めやベンチ、街灯、換気口など、街の機能そのものが作品になっているのも特徴。ファーレ倶楽部では、こうした作品とその背景を市民の目線で伝え、これまでに4万人以上を案内してきた。
2008年からは立川市の小学生の授業にも取り入れられ、地域の生きた教材にもなっている。街にあるアートを次の世代へつなぎながら、地域の人とアートを結ぶ活動を続けている。

アートディレクター、 アートフロントギャラリー主宰
1946年新潟県生まれ。 東京藝術大学 美術学部卒。 1971年に東京芸大の学生・卒業生を中心に 「ゆりあ・ぺむぺる工房」 を設立し、 展覧会やコンサート、 演劇の企画・制作に関わる。 1982年、 株式会社アートフロントギャラリーを設立。 アートによる地域づくりの実践として 「大地の芸術祭 越後妻有アートトリエンナーレ」 (2000~)、 「瀬戸内国際芸術祭」 (2010~)、 「房総里山芸術祭 いちはらアート×ミックス」 (2014、2021) 、 「北アルプス国際芸術祭」 (2017、2021、2024)、 「奥能登国際芸術祭」 (2017、2021、2023)、 「百年後芸術祭~環境と欲望~内房総アートフェス」(2024)、「南飛騨 Art Discovery」(2024)で総合ディレクターを務める。 フランス芸術文化勲章シュヴァリエ、 ポーランド文化勲章、 朝日賞、 イーハトーブ賞など受賞多数。 2018年度、 文化功労者に選出される。
- アートフロントギャラリー:https://www.artfront.co.jp
立川市図書館所蔵のファーレ立川関連資料(参考文献)
- ファーレ立川パブリックアートプロジェクト 基地の街をアートが変えた
著者 北川 フラム/キタガワ,フラム 出版社 東京 現代企画室 出版年月 2017年3月 - ファーレ立川アートプロジェクト-都市・パブリックアートの新世紀
著者 木村 光宏/キムラ,ミツヒロ 北川 フラム/キタガワ,フラム 出版社 東京 現代企画室 出版年月 1995年11月 - パブリックアートの世界-アートの妖精が棲む街ファーレ立川(別冊太陽)
出版社 平凡社 出版年月 1995年 - ファーレ立川パブリシティー資料
出版社 北川 フラム 出版年月 1994年 - ファーレ立川の歴史的位相とその未来
著者 北川 フラム/キタガワ,フラム 出版社 北川 フラム 出版年月 1994年
このほかにも、立川市図書館ではファーレ立川に関するさまざまな資料を所蔵しています。
(取材ライター:Me Time Japan in Tama )
